『敬天愛人』のルーツ 中村正直

出演者
岩井基雄
制作
PBA 太平洋放送協会
再生時間
5min

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アップロード日
2020.08.31
カテゴリ
人物・人生
聖書箇所
[新約聖書] ヨハネの手紙第一 4章10節
放送日
2020.08.31

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世の光の時間です。お変わりありませんか、岩井基雄です。最終月曜日は、歴史の中を歩んだクリスチャンの生涯から学んでいます。今日は、先週に引き続き、西郷隆盛が愛した言葉「敬天愛人」のルーツであり、明治六大教育家の一人、中村正直を学びましょう。
 「敬天愛人」という言葉は、18世紀の中国、清の康熙帝が最初に用いました。中国に進出していた宣教団体の中で、康熙帝は、イエズス会だけ宣教活動を認め、その認定として「敬天愛人」の文字を刻み贈呈しました。イギリスに留学生を連れて渡英していた正直は、イギリスの教会でこの言葉と出会っていたようです。
 明治になり、日本に戻ってきた正直は、同じ静岡学問所の教授であったクラーク宣教師からも、聖書を深く学びます。そしてサムエル・スマイルズの自助論を翻訳したとき、正直は、キリスト教精神を要約した言葉として、この天の神を敬い、人を心から愛するという意味をもつ「敬天愛人」を使ったのです。
 西郷は、この「敬天愛人」という言葉を最初に聞いたのは、静岡学問所の学生で、薩摩藩士、最上五郎だったようです。そして隆盛は、友人でもあった正直に、聖書について、また「敬天愛人」の意味について詳しく聞いたに違いありません。当時既に、中国語の聖書を読んでいた西郷は、聖書が語る神との出会いによって、「敬天愛人」の言葉を大切にし、晩年は神と人を愛する者として歩んだのです。
 西郷にも深い感化を与えた中村正直は、多くの人々に、聖書に基づいた人格教育の重要性を説きました。そして、個人の尊厳や個性と自由の大切さを強調したのです。
 のちに彼は、東京大学の教授となり、女子教育や聾唖教育にも力を注ぎ、明治の教育の重要な働きを担います。明治8年、43歳の時に正直は、横浜の教会でコクラン宣教師から養子の一吉とともに、キリスト教の洗礼を受けました。58歳で地上の生涯を終えるまで、キリスト者として、神と人とを愛する真の教育に携わり続けたのです。
 聖書の言葉「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」新約聖書 ヨハネ第一手紙 4章10節
 私たちも、信仰の歩みをさせていただきたいと願います。

コメント

村山 廣
西郷隆盛と中村正直が直接文を交わしていたとか会っていたとかいう証明(記録)はどこにあるのでしょう?

何処までが史実で何処からが推測でしょうか?

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