カの福音書3-あなたに分かって欲しい

出演者
大嶋重徳
制作
PBA 太平洋放送協会
再生時間
5min

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アップロード日
2019.11.21
カテゴリ
人物・人生
聖書箇所
[新約聖書] ルカの福音書 章
放送日
2019.11.21

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世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか。大嶋重徳です。ルカ福音書がテオフィロという個人宛てに書かれていることを学んできました。このテオフィロという人について分かることがあります。「すでに教えを受けられた事がら」とありますように、テオフィロはある基本的な初歩的な教えを聞いたことがある人です。聖書の教えをひと通りは聞いたことがある人です。洗礼を受けるには今一歩まだ足りないと思っている、もう一歩踏み出せない、確信を持てない、もしくは洗礼を受けたけれども少しぐらついてる、このルカ福音書の記された目的は、この求道者テオフィロが聞いている事がらが、確実なものであるということを知って欲しいと願って記されているのです。洗礼を受けることを迷っている人に、あなたの信じていることは確かなことですよと伝えたい思いで、記るされたのです。
 1章の4節にある「教えが確かで」というのは、「確かな根拠を」という意味があります。つまり私たちは、どんな立派なお話を聞いても、美しいお話を聞いても、確かな根拠がないと、そう簡単に信じるわけにはいきません。そんな風に生活できたらいいけど、自分は到底できないなと思うなら、その人が信じる確かな根拠とはなりません。ましてや、洗礼を受けるなど、そんなわけにはいきません。信仰をもつには、自分の生活の確かさとなり、自分の家、自分の家族の人生の根底から支えてくれる確かさがないと、いくら感動的な話を聞いたとしても頼りないわけです。
 おそらくテオフィロは、そのようなぐらつきを見せたのではないかと思います。そして今日、私たちもまた、このテオフィロのぐらつきをよく理解できます。なぜなら、私もまた絶えずぐらつくからです。朝にはとても信仰に満ち溢れた思いで始まる。しかし、夕方帰ってくると、もうぐらついている。そんな繰り返しの連続です。もし、クリスチャンになったとしても、私たちは信仰がぐらつくということがあります。そして、私のようなぐらつくクリスチャンには、いつも福音の言葉を聞かなければなりません。クリスチャンとは、永遠に求道者であるべきです。キリスト教信仰は、信じたからそれでずべてがわかったのかというと、そうではありません。絶えず初心にかえって、一番大切なものを受け取らない限り、私たちはいとも簡単に信仰から遠ざかっていくこととなります。
 ルカ福音書はあなたに語ります。ぐらついてよいのだと。ぐらついてしまうからこそ、ルカ福音書が書かれたのです。わからないことがあってよいのです。そのために、ルカ福音書が書かれたのです。このルカ福音書をはじめとした聖書は、それでも、あなたにわかってもらいたいことがあると、その一心で記されたのです。だからこそ、私たちは、今日も聖書を読み続けていきたいと思います。

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