己のごとく人を愛した永井隆-2
- 出演者
- 岩井基雄
- 制作
- PBA 太平洋放送協会
- 再生時間
- 5min
- タグ
-
- 病気のとき
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- アップロード日
- 2019.07.29
- カテゴリ
- 人物・人生
- 聖書箇所
-
[新約聖書] コリント人への手紙第二 1章4節
- 放送日
- 2019.07.29
世の光の時間です。お変わりありませんか。岩井基雄です。最終月曜日の今日も、己のごとく人を愛した永井隆について学んでみましょう。
明治41年、島根県松江市で医者の家庭に生まれた永井隆は、高校時代に恩師から初めてキリストの福音を聞きました。軍医として従軍した後、大学病院に勤務する中、永井はキリストへの信仰を告白し、洗礼を受け、クリスチャンホームを築きます。永井は使命として、放射線医学を研究し、一日に何百枚ものレントゲン写真を撮る中、自らが白血病になりますが、その後も病気の体をおして治療と研究を続けて行きます。
しかし、彼の人生を大きく揺り動かす事件が起こります。昭和20年8月9日、長崎に原子爆弾が投下され、爆心地から700メートルの長崎医大診療室で永井は被爆したのです。右側頭動脈切断という重傷を負いつつも、永井は布を頭に巻くのみで、他の負傷者たちの救護活動に当たったのです。投下された爆弾が原子爆弾であると知ったのは翌日でした。浴びすぎた放射線で白血病患っていた上に、原爆の後遺症が永井の病をさらに重くします。それでも永井は、被爆者の救護のため命を削って診療を行い、神の愛に基づいた医療を続け、多くの書物を書き残したのです。痛みを知るゆえの慰めが、多くの人々に届きました。昭和26年5月1日に、永井は地上の使命を終え、神のもとへと戻りました。告別式は、長崎の浦上天主堂で長崎市民二万人が参列して執り行われ、弔電は当時の吉田総理をはじめ300通あり、出棺の際には、天主堂の鐘に合わせて、長崎中の教会、寺院の鐘、工場、波止場のサイレンが、永井の死を悼んで一斉に鳴らされたのです。神の愛に生きた永井隆の生涯は、多くの人々の心に深く刻まれたのです。
聖書の言葉「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます。」新約聖書コリント人への手紙第二 1章4節
明治41年、島根県松江市で医者の家庭に生まれた永井隆は、高校時代に恩師から初めてキリストの福音を聞きました。軍医として従軍した後、大学病院に勤務する中、永井はキリストへの信仰を告白し、洗礼を受け、クリスチャンホームを築きます。永井は使命として、放射線医学を研究し、一日に何百枚ものレントゲン写真を撮る中、自らが白血病になりますが、その後も病気の体をおして治療と研究を続けて行きます。
しかし、彼の人生を大きく揺り動かす事件が起こります。昭和20年8月9日、長崎に原子爆弾が投下され、爆心地から700メートルの長崎医大診療室で永井は被爆したのです。右側頭動脈切断という重傷を負いつつも、永井は布を頭に巻くのみで、他の負傷者たちの救護活動に当たったのです。投下された爆弾が原子爆弾であると知ったのは翌日でした。浴びすぎた放射線で白血病患っていた上に、原爆の後遺症が永井の病をさらに重くします。それでも永井は、被爆者の救護のため命を削って診療を行い、神の愛に基づいた医療を続け、多くの書物を書き残したのです。痛みを知るゆえの慰めが、多くの人々に届きました。昭和26年5月1日に、永井は地上の使命を終え、神のもとへと戻りました。告別式は、長崎の浦上天主堂で長崎市民二万人が参列して執り行われ、弔電は当時の吉田総理をはじめ300通あり、出棺の際には、天主堂の鐘に合わせて、長崎中の教会、寺院の鐘、工場、波止場のサイレンが、永井の死を悼んで一斉に鳴らされたのです。神の愛に生きた永井隆の生涯は、多くの人々の心に深く刻まれたのです。
聖書の言葉「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます。」新約聖書コリント人への手紙第二 1章4節
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