十戒 自由への励まし-108 偽証してはならない
- 出演者
- 大嶋重徳
- 制作
- PBA 太平洋放送協会
- 再生時間
- 5min
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- アップロード日
- 2019.06.06
- カテゴリ
- 人物・人生
- 聖書箇所
-
[旧約聖書] 出エジプト記 章
- 放送日
- 2019.06.06
世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか。大島重徳です。聖書には十戒と呼ばれる、神と人との間に結ばれた約束があります。十戒を始めとした聖書の言葉は、人間を縛り付けるものではなく、自由へと導くための言葉なのです。
十戒 第九戒は「隣人に対して偽証してはならない」です。私たちは偽りの証言や情報が拡散されようとする時代に対して、神様の真実を語る責任をおびています。なぜなら、神様の言葉の真実に出会った者たちは、偽りなき神の言葉を語るものとなっていくからです。しかし聖書を見ていく時、十戒 第九戒の「偽りの証言をしてはならない」から生み出される生き方は、クリスチャンであっても自明のものではありませんでした。実に旧新約聖書の中で、いつの時代も偽預言者が絶えず現れてきたからです。旧約聖書に出てくる預言者イザヤ、エレミヤ、エゼキエルたちは、「このまま神に従わないならば、この国は滅びる」と命がけで語ったのに対して、必ず対抗するように、「あなた方に災いは決してこない」と語る偽預言者が出てきました。彼らは平安がないのに平安と言って人々を惑わしたのです。
イエス様は、この世の終わりに偽預言者が出てくることを語られました。偽キリストも出てくるのだと。彼らは自分の心のままに主の御告げを語ります。そんな彼らの姿を神様は怒っておられるのです。十戒 第九戒は、そのような時代の中で、教会が真理を語らなくなることへの警告をしています。第九戒「偽りの証言の禁止」は、嘘を言わないことだけではなく、偽りの情報が語ら、まちがったことが公で言われている中、教会が沈黙したり、聖書が語っているにもかかわらず、「災いは来ない」と言ったりする私たちの姿も第九戒の違反となっているのです。
キリスト教会には、「裁いてはならないですよね」と、正しく見えながらまた安易に見せかけた欺きがあり、偽りが正当化されることが起こりえます。それは端から見ると、心配りや、言葉使いにも、配慮が行き届いているような、親切な姿に見えることもできるでしょう。しかし、教会の犯す罪の隠蔽や、牧師の不祥事の隠蔽も起こり得ることがあるのです。私たちは、いつも神様の前で誠実でいたいと思います。気がつかないうちに偽預言者のように、偽りの証言をしていることのないようにしたいのです。そのために必要な事は、神様の言葉を聞きながら自らの過ちを認めやすいものでいることです。そして絶えず、悔い改めやすいものとさせられたいと思います。
十戒 第九戒は「隣人に対して偽証してはならない」です。私たちは偽りの証言や情報が拡散されようとする時代に対して、神様の真実を語る責任をおびています。なぜなら、神様の言葉の真実に出会った者たちは、偽りなき神の言葉を語るものとなっていくからです。しかし聖書を見ていく時、十戒 第九戒の「偽りの証言をしてはならない」から生み出される生き方は、クリスチャンであっても自明のものではありませんでした。実に旧新約聖書の中で、いつの時代も偽預言者が絶えず現れてきたからです。旧約聖書に出てくる預言者イザヤ、エレミヤ、エゼキエルたちは、「このまま神に従わないならば、この国は滅びる」と命がけで語ったのに対して、必ず対抗するように、「あなた方に災いは決してこない」と語る偽預言者が出てきました。彼らは平安がないのに平安と言って人々を惑わしたのです。
イエス様は、この世の終わりに偽預言者が出てくることを語られました。偽キリストも出てくるのだと。彼らは自分の心のままに主の御告げを語ります。そんな彼らの姿を神様は怒っておられるのです。十戒 第九戒は、そのような時代の中で、教会が真理を語らなくなることへの警告をしています。第九戒「偽りの証言の禁止」は、嘘を言わないことだけではなく、偽りの情報が語ら、まちがったことが公で言われている中、教会が沈黙したり、聖書が語っているにもかかわらず、「災いは来ない」と言ったりする私たちの姿も第九戒の違反となっているのです。
キリスト教会には、「裁いてはならないですよね」と、正しく見えながらまた安易に見せかけた欺きがあり、偽りが正当化されることが起こりえます。それは端から見ると、心配りや、言葉使いにも、配慮が行き届いているような、親切な姿に見えることもできるでしょう。しかし、教会の犯す罪の隠蔽や、牧師の不祥事の隠蔽も起こり得ることがあるのです。私たちは、いつも神様の前で誠実でいたいと思います。気がつかないうちに偽預言者のように、偽りの証言をしていることのないようにしたいのです。そのために必要な事は、神様の言葉を聞きながら自らの過ちを認めやすいものでいることです。そして絶えず、悔い改めやすいものとさせられたいと思います。