『故郷』の作曲者 岡野貞一
- 出演者
- 岩井基雄
- 制作
- PBA 太平洋放送協会
- 再生時間
- 5min
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- アップロード日
- 2019.05.27
- カテゴリ
- 人物・人生
- 聖書箇所
-
[新約聖書] ペテロの手紙第一 5章6節
- 放送日
- 2019.05.27
世の光の時間です。お変わりありませんか。岩井基雄です。第四週の月曜日は、歴史の中を歩んだクリスチャンの生涯から学んでいます。
今日は、「兎追いしかの山」で始まる「ふるさと」の作曲者、岡野貞一について学んでみましょう。岡野貞一は、1878年、明治11年今の鳥取県鳥取市に士族の子として生まれました。彼は、幼少期に実の父親を無くし貧困の中育ちます。14歳の時、彼はあるきっかけで近くの鳥取教会へと導かれ、聖書が語る神様の愛とぬくもりに触れます。そして、キリストへの信仰を告白し、鳥取教会で洗礼を受け、賛美歌や西洋の音楽にも触れるのです。岡山の薇陽学院で学ぶ中、宣教師に彼の学才が認められ、1895年には学院を中退し、上京して東京音楽学校、現在の東京芸術大学に入学します。卒業後は、その東京音楽学校で教鞭をとり、1932年に退官するまで、音楽教育の指導者育成に尽力しました。それと並行して1918年からは文部省編纂の尋常小学唱歌の作曲委員も務めたのです。そして高野辰之の作詞により、「ふるさと」「春が来た」「春の小川」「紅葉」などの唱歌の名曲を生み出していったのです。しかし、唱歌の著作権は文部省に帰属しているため、作者名は戦後までほとんど明らかにされませんでした。さらに岡野は、自分の姿勢として自らの業績を学内や教会、教え子や家族にも伝えなかったのです。神様の前に遜った姿を、そこに見ることができるでしょうね。
また彼は、63歳で天に帰るまで、42年間、東京の本郷中央教会の教会オルガニスト、そして、聖歌隊の指導者として活躍しました。そのオルガン演奏も、伴奏者に徹した謙遜な主への奉仕だったと言われています。彼の葬儀が報告された教会の週報の最後には、「先生の黙々としてなされたすべてのご奉仕が、主によって永遠に祝福されることと信じます。」と綴られたのです。
聖書の言葉「あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。」新約聖書ペテロ第一の手紙5章6節
今日は、「兎追いしかの山」で始まる「ふるさと」の作曲者、岡野貞一について学んでみましょう。岡野貞一は、1878年、明治11年今の鳥取県鳥取市に士族の子として生まれました。彼は、幼少期に実の父親を無くし貧困の中育ちます。14歳の時、彼はあるきっかけで近くの鳥取教会へと導かれ、聖書が語る神様の愛とぬくもりに触れます。そして、キリストへの信仰を告白し、鳥取教会で洗礼を受け、賛美歌や西洋の音楽にも触れるのです。岡山の薇陽学院で学ぶ中、宣教師に彼の学才が認められ、1895年には学院を中退し、上京して東京音楽学校、現在の東京芸術大学に入学します。卒業後は、その東京音楽学校で教鞭をとり、1932年に退官するまで、音楽教育の指導者育成に尽力しました。それと並行して1918年からは文部省編纂の尋常小学唱歌の作曲委員も務めたのです。そして高野辰之の作詞により、「ふるさと」「春が来た」「春の小川」「紅葉」などの唱歌の名曲を生み出していったのです。しかし、唱歌の著作権は文部省に帰属しているため、作者名は戦後までほとんど明らかにされませんでした。さらに岡野は、自分の姿勢として自らの業績を学内や教会、教え子や家族にも伝えなかったのです。神様の前に遜った姿を、そこに見ることができるでしょうね。
また彼は、63歳で天に帰るまで、42年間、東京の本郷中央教会の教会オルガニスト、そして、聖歌隊の指導者として活躍しました。そのオルガン演奏も、伴奏者に徹した謙遜な主への奉仕だったと言われています。彼の葬儀が報告された教会の週報の最後には、「先生の黙々としてなされたすべてのご奉仕が、主によって永遠に祝福されることと信じます。」と綴られたのです。
聖書の言葉「あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。」新約聖書ペテロ第一の手紙5章6節