ルカの福音書-114 神に向きを変える「喜び」

出演者
大嶋重徳
制作
PBA太平洋放送協会
再生時間
5min
タグ
  • 不安や恐れを感じているとき
  • 孤独や悲しみを覚えるとき
  • 人を許すことが出来ないとき
  • 一歩踏み出したいとき

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アップロード日
2022.11.29
カテゴリ
人物・人生
聖書箇所
[新約聖書] ルカの福音書 5章
放送日
2022.11.29

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「世の光」の時間です。いかがお過ごしでしょうか。大嶋重徳です。
ルカ福音書を順番に読んでいます。ルカ5章の続きです。イエス様が救われたばかりの取税人レビが用意した食事会で食べたり飲んだりされたりしている中で、パリサイ人という人たちがそれを非難しました。悔い改めた者は断食して反省しているところを見せるべきではないかと言ったのです。
すると、イエス様は仰いました。「花婿が一緒にいるのに、花婿に付き添う友だちに断食させることがあなたがたにできますか」「花婿が一緒にいる」とイエス様は言われました。花婿とはイエス様のことです。イエス様は「信仰とは一体何か。それは神とともにあることではないか。今、神である私がここにいる。それは喜びのことなのではないか。神とともにある喜びにこそ、信仰の出発点を置きなさい」と語られたのです。
神様とともにいるにも関わらず、悲しそうな顔をしろというのがおかしいと仰いました。罪の悔い改めの目的は、自分のこれまでの生き方の向きを変え、神様に立ち返ってくることです。その神ご自身のもとに立ち返ろうとしたとき、まさか自分のようなものが神様に受け入れられるはずはないと思います。しかし、自分が今、神様のそばに受け入れられている。そこにあるのは喜びに決まっているわけです。彼らパリサイ派は悔い改めとは自分の罪に悲しむことだと考えていました。自分の罪に悲しんで、悲しんで、その先に、もう二度と罪を犯さない生き方を手にいれていくことなのだ。そこから先は断食をしながら自分の頑張り次第なのだと。
しかし、イエス様は、「それは悔い改めではない。人生の後悔だ」と。「生き方の向きが変わっていない神様の元へと帰ってきてはいない」と考えられました。パリサイ人のような自分の罪に悲しみ続ける信仰。それが神様の望まれるものでしょうか。逆にこの神の愛を前にして悲しみ続けることは、自分を受け入れ、愛してくれた神様に失礼なことではないでしょうか。「こんなに愛しているのにずっと泣いているのはどうしてだ」と神様は仰います。「私と一緒に居ることは、そんなにもつまらない悲しいことなのか」と。
イエス様は、今日私たちに喜びを与えたいと仰るのです。もうあなたは自分の罪に悲しみ続けなくて良い、私といることを何よりも一緒に喜ぶものであって欲しいと仰るのです。

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