神殿の幕が裂けた

出演者
関根弘興
制作
PBA 太平洋放送協会
再生時間
5min
タグ
  • 孤独や悲しみを覚えるとき

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アップロード日
2021.08.30
カテゴリ
人物・人生
聖書箇所
[新約聖書] コリント人への手紙第二 5章21節
放送日
2021.08.30

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 「世の光」の時間です。お元気でお過ごしでしょうか、関根弘興です。毎日お届けしているこの「世の光」は、太平洋放送協会PBAが制作しています。聖書のすばらしいメッセージを届けるために設立されたPBAは、今年、設立70周年を迎えました。
 さて、聖書が私たちに語りかける中心は一体何でしょうか。それは、イエス・キリストの十字架と復活によってもたらされた、素晴らしい救いがあるということです。イエス様は、当時、最も極悪な犯罪人を処刑する道具であった十字架につけられました。聖書は、イエス・キリストの十字架の意味をこう説明しています。第二コリント5章21節
 「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。」と。
 つまり、罪のないイエス・キリストが、私たちのすべての罪を背負い、罪の罰を受けて死んでくださったというのです。あなたのために、いのちを捨ててくださるほどの大きな愛を、イエス・キリストは注いでくださいました。
 さてイエス・キリストが、十字架上で息を引き取られたときに、いくつかの不思議な出来事が起こったと聖書は記しています。それは、エルサレムにあった神殿の幕が、上から下まで真っ二つに裂けたというのです。神殿は、入り口から入ってすぐのところが、聖所というものがあり、その奥には、至聖所と呼ばれる場所があります。そしてこの場所は、垂れ幕で仕切られていたのです。至聖所とは、神様が語りかけて下さるもっとも聖なる場所とされていました。その至聖所の入り口にかかっていた垂れ幕は、罪ある人間は、そのままでは、神様に自由に近づくことはできないということ。そして神様に近づくためには、罪の贖いが必要であるということを教えるためのものでした。
 しかしどうでしょう。イエス様が十字架で死なれたとき、なんと、私たちと神様とを隔てる、その幕が真っ二つに裂けたのです。それはイエス・キリストの十字架によって、私たちは罪のない者と認められ、神様に自由に、何の隔ての壁もなく、近づくことができるようになったということを示すためのものでした。うれしいですね。
 今、私たちは、イエス・キリストの十字架によって、躊躇することなく、大胆に神様に近づき、神様とともに歩み、神様と親しく語り合うことのできるものとされているのです。

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