信仰によって生きる人々

出演者
福井誠
制作
PBA 太平洋放送協会
再生時間
5min
タグ
  • 人を許すことが出来ないとき

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アップロード日
2021.06.23
カテゴリ
人物・人生
聖書箇所
[新約聖書] ガラテヤ人への手紙 3章9節
放送日
2021.06.23

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 「世の光」の時間です。いかがお過ごしでしょうか、福井誠です。今日も聖書を開いてまいりましょう。今日はガラテヤ人への手紙3章9節より、「信仰によって生きる人々」と題して、メッセージをお伝えいたします。
 「信仰によって生きる人々が、信仰の人アブラハムとともに祝福を受けるのです。」
 昨日は、キリスト教信仰は実に単純なもの、人が罪の滅びから救われるためには、ただキリストの十字架による罪の赦しを信じるだけでよいのだというお話しをしました。
 この3章でパウロは、さらにその内容を深めています。つまりなぜ、イエスの十字架を信じるだけでよいのかといえば、それは13節、十字架が、私たちのために、キリストが神にのろわれたことを意味するからだと言います。
 本来なら、罪深い私たちが受けるべき神の呪いと罰を、イエスが身代わりとなって受けてくださったとなれば、それ以外のもの、つまり、割礼や律法を守ることが必要なのだと主張することは、イエスの苦しみが十分ではなかったと言っているようなものです。イエスの肉が裂かれ、血が流されたあの犠牲では、全く足りないということでしょう。実にそれは、愚かな考えと言うべきです。
 そこでパウロは、そもそも論を展開しています。ユダヤ人に馴染み深い、ユダヤ人の父祖アブラハムの例をあげて、ユダヤ人が神の祝福を受けたのは、どのようにしてかを思い起こさせています。つまりかつて神は、アブラハムという人物を祝福されましたが、それは、アブラハムが神の約束を信じる忠実な僕だったからです。
 アブラハムが割礼を受けたからでも、後の時代に与えられた律法を守ったからでもないと。アブラハムは、約束を信じる信仰によって祝福されました。それは、今も全く変わらない原則なのだと語ります。
 そして、後からユダヤ人に与えられた律法は、人に救いを与えるためのものではなくて、人に違反を示し、キリストの十字架による罪の赦しを求めさせるためのものであるといいます。自分が、不完全で罪深い者だと思わされる時には、そのような自分のためにイエスが、のろわれてくださったことを、しっかり覚えたいものですね。では今日も、良き一日となるように祈ります。

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