新しいいのちに生きる

出演者
大井満
制作
PBA 太平洋放送協会
再生時間
5min
タグ
  • 死や命について考えているとき
  • イースター

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アップロード日
2021.05.08
カテゴリ
人物・人生
聖書箇所
[新約聖書] ローマ人への手紙 6章23節
放送日
2021.05.08

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 「世の光」の時間です。今週のメッセージを担当しています、東京にある板橋教会の牧師、大井満です。
 私が通っていた高校は、大阪府の南部にあって、当時は、とても小さくてのんびりしたキリスト教主義の学校でした。入学して驚いたことの一つは、校歌が讃美歌の替え歌だったことです。
 一節の出だしは、「朝の日差し 爽やかに明けゆく」で、三節は、「清き光 鮮やかに 輝り出ず」で始まります。今改めて、この歌詞を思い出すと、とても明るく希望に満ちています。ちょうどイエス・キリストが、死を打ち破ってよみがえられたイースターの朝のようです。
 ローマ人への手紙6章4節に、このような言葉があります。「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。」
 別のキリスト教主義学校の校長先生が、大手新聞のインタビューで、とても大胆なことを語っておられました。大体こんな内容でした。
 「イエス・キリストを信じていない人は、生きていると思っているだけで本当は死んでいるのです。」クリスチャンでない方が、この言葉をどのように受け取られるだろうかと思いましたが、でも、これは真実です。同じローマ人への手紙6章23節にあるように、「罪の報酬は死」だからです。
 けれども、そんな私たちが、洗礼、バプテスマを受ける時、驚くべきことが起こります。洗礼式では、水が用いられます。水には、ものを洗い清める力があり、私たちの罪が、洗い流されるのを象徴します。同時に、私たちは水の中では生きていけないことも思い起こす必要があります。私たちが水につけられたり、あるいは水を注がれる時、十字架で死なれたイエス・キリストとともに、私も死ぬのです。古い罪の私が死んで、そして水から引き上げられ、イエス・キリストの復活のいのちに、新しいいのちに、私たちも生きるようにされるのです。
 あなたも、新しいいのちの希望に満たされた朝を迎えませんか。あなたの今日一日の歩みに、また人生の日々に祝福を祈ります。

コメント

石原興一
私は浸礼バプテスマを受けたのですが、あの荒川の水に一瞬でも沈まされ牧師に引き上げられたこと、あのとき私は一旦死んだんだと改めて実感しました。

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