たった一度で十分な

出演者
大井満
制作
PBA 太平洋放送協会
再生時間
5min

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アップロード日
2021.05.07
カテゴリ
人物・人生
聖書箇所
[新約聖書] ヘブル人への手紙 7章27節
放送日
2021.05.07

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 「世の光」の時間です。今週のメッセージを担当しています、東京にある板橋教会の牧師、大井満です。
 ヘブル人への手紙7章27節に、「イエスは、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のために、次に民の罪のために、毎日いけにえを献げる必要はありません。イエスは自分自身を献げ、ただ一度でそのことを成し遂げられたからです。」とあります。この聖書の言葉は、イエス・キリストの十字架の出来事は、一回だけで十分で、繰り返したり、追加で何かが必要になるというような不完全なものではないという意味です。
 人間というのは、不完全な存在です。私も小さなミスをすることがよくありますし、笑いごとで済まされないような失敗も数々あります。小学校五年生の時、父に一発平手で頬を叩かれたことがあります。父が私に手を挙げたのはこの一回だけでした。大好きないとこたちが遊びに来ていたので、私はカブ・スカウトの活動に参加しないと言い張ったのです。父は、「お前には、班長としての責任があるのだから、カブ・スカウトに行くように」と強く言い、一発お見舞いされたのです。
 このたった一度の出来事は、相当こたえました。何を大事にしなければならないかということを考えるきっかけになりました。尚、私は体罰を認めません。私の成長した四人の子どもたちにも、手をあげたことは一度もありません。
 イエス様が十字架で死んでくださったことは、たった一度でしたが、一度ですべての人の罪を赦す力がありました。それは何よりも、イエス様が神の子、神でいらっしゃるからです。神が、この取るに足りない私のために、十字架につけられて死んでくださったのですから、これほど完璧なことはありません。
 昔ユダヤでは、民族の罪の赦しを願って、大祭司が、毎年、毎年、年に一度、神にいけにえを献げていました。けれども、イエス・キリストの十字架は、このような繰り返して行われるいけにえの儀式を、無用のものに変えました。ただ一度で、すべてを完璧に成し遂げて下さったのですから。イエス様の十字架による救いと罪の赦しという、すばらしいプレゼントを、ぜひ、あなたも受け取ってください。

コメント

石原興一
お父様に平手打ちをもらった経験から、何が一番大切かと言うことを知らされたエピソードが心に響きました。

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