ルカの福音書59-だからこそイエスとともに

出演者
大嶋重徳
制作
PBA 太平洋放送協会
再生時間
5min

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アップロード日
2021.03.20
カテゴリ
人物・人生
聖書箇所
[新約聖書] ルカの福音書 3章
放送日
2021.03.20

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 「世の光」の時間です。いかがお過ごしでしょうか、大嶋重徳です。今週は、ルカ福音書を順番に読んで、ルカ福音書3章で洗礼のことについて考えていきました。
 最後に、洗礼は神の家族になったことの表れです。キリスト教会が大切にしてきたことの一つに、洗礼と共に、聖餐式があります。聖餐式とは、イエス様が十字架にかかられる前の夜に、パンを裂いてぶどうの杯を分けて下さったことを思い起こし、自分の罪のために、イエス様の十字架があったことを思い起こすのです。そこで必ず、自分を吟味してと、あたりまえのように聖餐を受けるのではなく、自分の罪の悔い改めと、自分の生活を吟味する時間を教会では持ちます。
 ある時、ある方が聖餐を受け取らないということを選ばれました。それが私の目に入った時、「どうなさったのですか」と後から聞くと、「私の生活を振り返ると、とてもとても聖餐式を受け取るような状況にはなくて」と悲しそうな顔をされていました。そこにある誠実さを覚えながらも、同時に違和感をも覚えたのです。そもそも、とてもこのパンとぶどうの杯を受け取れる自分などではないからです。イエス様の十字架が、私たちには必要だったのです。とてもとても受け取れる自分ではないからこそ、このパンを、むしろ食べて生きていかないといけないのです。
 「まだまだ、洗礼を受けられるような信仰じゃないので」と、洗礼を受けることを躊躇される方がいます。しかし罪に汚れ、神様に喜ばれない私たち。神様の方は、いつもこうおっしゃいます。「そんなことを言うな」と。「あなたは、わたしの愛する子だ。わたしはこれを喜ぶ。」この神様の声につながって生きるあなたに、神様は、私たちの存在を喜んで下さると神様の側でおっしゃって下さるのです。
 洗礼には、決断を必要とします。気がつかないうちに洗礼を受けていたということはありません。どこかで洗礼を受ける決心をするのです。イエス・キリストを信じ、キリストに生かされながら、キリストと共に歩んでいく事を、あなたは求めているのであれば、洗礼の決断へと踏み出して欲しいと思います。
 完璧に疑いが消えたら、ちゃんと信じるようになったら、ちゃんと罪を犯さなくなったら、しかし、そんな日はきません。急ぐことはありません。しかしいつの日か、必ずあなたを洗礼に導こうとされている神様が、その日をあなたに与えて下さいます。その日に備えておきましょう。ラジオのリスナーの方のその日が来ることを、私たちは一緒に心待ちにし、お祈りをしていこうと思っています。

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