ルカの福音書57-立派だからクリスチャン?

出演者
大嶋重徳
制作
PBA 太平洋放送協会
再生時間
5min

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アップロード日
2021.03.18
カテゴリ
人物・人生
聖書箇所
[新約聖書] ルカの福音書 3章
放送日
2021.03.18

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 「世の光」の時間です。いかがお過ごしでしょうか、大嶋重徳です。ルカ福音書を順番に読んでいます。ルカ福音書3章には、イエス様がバプテスマを受けられた時のことが記されています。
 ラジオのリスナーの方も、「洗礼を受けることを決心なさってはどうですか」と言われたことがあるかもしれません。洗礼は、人に強制されてするものではありません。しかし、神様の言葉と祈りに、既に生かされてらっしゃるなぁと思われる方々がおられるのも事実です。洗礼を受けるのには至らない。そして、こんな風におっしゃることがあります。「自分はまだまだ罪ばかりを犯してしまうので。」
 しかし、クリスチャンとは立派な人のことを言うのではありません。すべてがわかってから洗礼を受けるのでもありません。洗礼を受けると、もう罪を犯せないということでもないのです。きちんと洗礼を受けてからも、きちんとクリスチャンは罪を犯すのです。しかしクリスチャンとは、イエス・キリストと共に生きようとする人のことです。そして、イエス様と共に生きようとする人に、イエス様が共に生きて下さるのです。
 洗礼は、救われたことの確かさをあらわしてくれます。洗礼式の出来事は、「信じる」とあなたが言った時から、あなたには、宅急便が届いた時の受け取りのように、「あなたはわたしのもの」と、神様が受け取りのハンコを押して下さったようなものです。洗礼はその印鑑の役割を果たすのです。
 「いやぁ、あれは子どもの頃だったので、なかったことにして下さい。」と言ったとしても、「いやいや、あなたはもうわたしのものだ」と神様はおっしゃって下さる。会社の社章っていう、あのバッジのようなものでもあるかもしれません。入社したあなたを、「わたしはきちんと育てる。一人前の社員として、会社をあげて育てる。」と、神様があなたの信仰を「わたしが導き、わたしが育て、わたしが確かにするのだ」とおっしゃって下さるのです。
 洗礼を受けてからの私も、日々、罪を犯し続けています。しかしそれはもう、神様の手の中の出来事なのです。確かに神様の手の中に入れていただいた。そしてイエス様が、週ごとにみことばを語って下さり、聖餐式の恵みの中に入れて下さり、そして育てて下さるのです。新しく生きる生活のルーティンが始まっていくのです。その時に私たちは少しずつでも、確かに変えられていくのです。この救われた確かさが、私たちを信仰のぐらつきから守ってくれるのです。
 16歳の洗礼を受けた日から、事実、神様は私を守って下さいました。そして、これからも守って下さるでしょう。たとえ罪を犯したとしても、古い自分が死んだ日を、確かに思いを起こすことができるのです。

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