悲しみの道

出演者
関根弘興
制作
PBA 太平洋放送協会
再生時間
5min

もっと詳しく見る

アップロード日
2021.02.09
カテゴリ
人物・人生
聖書箇所
[新約聖書] マルコの福音書 15章
[新約聖書] コリント人への手紙第二 5章21節
放送日
2021.02.09

いいね登録

     登録数:0

いいねリストを見る

「世の光」の時間です。お元気でお過ごしでしょうか。関根弘興です。今週は、イエス様の十字架への道ということで話をしています。
 イエス様は、当時の宗教家たちの妬みによって、総督ピラトのもとで裁判を受けることになりました。
 再三ピラトは、イエス様には罪は見当たらないと宣告していたのですが、群衆は納得しませんでした。そしてピラトは、ヘブル語でガパタ、敷石と呼ばれる場所で裁判の席についたのです。群衆は、「イエスを十字架につけよ。」と口々に叫び始めました。そしてついにピラトは、イエス様を十字架につけるために引き渡したのです。
 イエス様は、自分がはりつけになる十字架を背負い、処刑場まで歩いていかれました。その道はその後、悲しみの道「ヴィア・ドロローサ」と呼ばれるようになりました。約一キロほどの道です。十字架は、約4.5メートルの縦の棒と、2メートルぐらいの横棒を別々に運び、処刑場で組み合わせることになっていました。囚人が担ぐのは、横棒だけであったと言われていますが、横棒だけでも、4-50キロはあったのではないかと思います。
 考えてみて下さい。イエス様は前日の夜、逮捕され、合計で、6回もの審問を受けられました。一睡もされていなかったでしょう。そして残酷な、むち打ちによって、背中はザクロのように割れ、血だらけです。その背に重い十字架を背負って、歩いていかなければならないのです。いばらの冠をかぶせられた頭からは、血が流れていたことでしょう。どんなに屈強な男でも、肉体的にはもう限界を越えている状態だったでしょう。
 私が高校生の頃、「ドロローサ」という歌を教会でよく歌いました。こんな詞です。
 「私の罪のために 重い十字架負わされ あざける人の中を 耐えて行かれたイエスよ ドロローサ ドロローサ 私の胸の中に 刻まれた主の十字架 いばらの冠つけて 祈られる主の姿 ドロローサ ドロローサ のぼって行く道」
 イエス・キリストが歩まれたこの悲しみの道は、いったい何のためだったのでしょう。聖書はこう教えています。第二コリント5章21節
 「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。」
 私たちのために歩まれた悲しみの道、ドロローサだったのですね。

コメント

番組に対するコメントはまだありません。ぜひ感想をお願いいたします。

コメントを投稿する

お問い合わせ