わたしは生きている

出演者
福井誠
制作
PBA 太平洋放送協会
再生時間
5min

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アップロード日
2020.09.09
カテゴリ
人物・人生
聖書箇所
[旧約聖書] エゼキエル書 5章11節
放送日
2020.09.09

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世の光の時間です。いかがお過ごしでしょうか。福井誠です。「継続は力なり」聖書を一日一日と読み進むなら、不思議にも自然に養われるものがあります。今日も聖書を開いてまいりましょう。エゼキエル書5章11節から「わたしは生きている」と題してメッセージをお伝えいたします。
 「それゆえ──神である主のことば──わたしは生きている。あなたが、あらゆる忌まわしいものと、あらゆる忌み嫌うべきことによって、わたしの聖所を汚したので、わたしもまた身を引き、あわれみをかけない。わたしもまた、惜しまない。」
 エゼキエル書5章は、ユダ南王国に対する、神様の徹底した裁きを伝えている箇所ですね。実に読んでいて神様が怖くなるような、そんな気持ちにさせられます。しかし先週も、神様の本質は愛であると語りました。問題は、このような結果をもたらした、人間の頑な歩みがあったということでしょう。もともとイスラエルの民は、エジプトの奴隷状態から救い出され、約束の地カナン、現在のイスラエルに住み着くようになった人々です。
 彼らは、イスラエルにやって来る前に、シナイ山という場所で神様と契約を結びました。エジプトの奴隷状態から救い出して下さった神をあがめ、その神のみに仕え、神の民として生きるなら、神は飢饉と悪い獣、疾病と虐殺から守られると。しかしそうでないならば、これらの災いが下されると教えられて、そう語る神様と契約を交わしたのです。けれども、その後のイスラエルの歩みは、救いの神をあがめ、神のみに仕え、神の民として生きるものではありませんでした。
 神は忍耐に忍耐を重ね、イスラエルの人々が悔いあらためて立ち返ることを待ち望んできましたが、彼らは神に背を向け続けてきました。それが旧約聖書の長い歴史に書かれてきたことですね。そしてイスラエルの人々は、とうとう国を失い、痛い目にあって、神様との契約を思い出していくのです。
 ひどい目に合わなければ悟れないようなものであってはならないとは思いますが、人間とは愚かな者です。迷いやすい人に、熱い心をもって歩むべき道を語ってくださるお方がおられます。いつも、そのお方を覚えて、謙虚に歩ませていただきたいものです。では、良き一週を祈ります。

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