人の無力さ

出演者
関根弘興
制作
PBA 太平洋放送協会
再生時間
5min

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アップロード日
2020.07.17
カテゴリ
人物・人生
放送日
2020.07.17

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 「世の光」の時間です。お元気でお過ごしでしょうか、関根弘興です。
 イエス様が逮捕される前、オリーブ山の麓にある「ゲッセマネ」というところに行かれ、これまで弟子たちが見たことのない苦しみの形相で、イエス様は苦しみもだえながら祈られました。
 「父よ、できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」と祈られたのです。
 「この杯」とは、自らが人の罪を背負い、十字架について罰せられるということです。罪のない神の子イエス様が、神様に呪われた者となるということほど、大きな矛盾、大きな悲劇はありません。もしここでイエス様が、「こんなに苦しんで何の得があろうか。そうだ、やっぱり十字架にかかるのはよそう」と言って放棄したなら、救いの道はまったく失われてしまいます。ですから、ゲッセマネのこの祈りは、人としてこられたイエス・キリストの最大の霊的な戦いだったのです。
 一方で弟子たちはどうしていたでしょう。弟子たちは、イエス様がもだえ苦しみながら祈っている時、なんと、「眠ってしまった」と書かれているんです。それも、三度も、繰り返し眠り込んでしまったというんですね。夜ですから疲れていたのかもしれません。あるいは人は極度の恐れと緊張が続くと、それを和らげるために眠ってしまうことがあると言われるんです。ともかく、祈ろうとしても眠ってしまう、この繰り返しが弟子たちの姿でした。
 そんな弟子たちにイエス様は、「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えていても肉体は弱いのです。」こう言われたのです。
 確かに、心に燃えるような思いがあっても、実際に体が動かないってことってありますね。弟子たちは、イエス様のもだえ苦しむ姿を見て、「ああ、自分たちもイエス様のために祈らなくてはいけない」と心が燃えていたはずです。しかし、眠りこけてしまったんですね。
 この弟子たちの姿は一体何を教えているんでしょう。それは、人はどんなに燃える思いがあっても、イエス様が完成してくださる救いの御業には、何一つ手助けになるようなことはできないということなんです。
 イエス様の飲もうとする杯は、イエス様以外には受け取ることのできない杯であり、人はそれに何も付け加えることができません。永遠の救いを達成してくださる方は、イエス様以外に誰もいないのです。

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